「電車やバスが使えない、車が運転できない、体力も落ちてきている——。そうなると、買い物などの日々の移動はもちろん、生活に必要なお金を下ろすことも困難になる方がいます」
過疎化・高齢化が進む長野県信濃町で、移動スーパー「とくし丸」の販売パートナーを務める安藤陽子さんはそう語る。
安藤さんは日々、山間部の集落を回っている中で、交通手段が限られ買い物に困難を抱える人たちと接している。
「移動スーパーの利用者には高齢者の方が多いですね。脊髄損傷で歩けず車椅子で生活されている方などもいらっしゃいます。
中には、買い物をするにもお金がなくて、往復2000円〜3000円も払ってタクシーで年金を下ろしに行く方もいます。生活困窮に陥っている方も多く、そういったときには本当に心苦しくなります」
食品宅配事業や「買い物弱者」対策支援事業等を行う河合秀治さん(セイノーホールディングス株式会社執行役員 / セイノーラストワンマイル株式会社)も、移動が制約されることの困難について次のように話す。
「高齢者の方の移動や外出の目的は、スーパー、薬局、病院に行くということがほとんどです。
交通手段が限られている地域では、こうした生活の基本に関する移動の選択肢が確保されていません」
リディラバジャーナルの構造化特集。今回のテーマは「移動制約〜交通手段が限られる社会の困難〜」。
地域公共交通の衰退などを背景に、自家用車を運転できず交通手段が限られる高齢者や障害のある人が孤立し、生活上の困難や健康問題を抱えている。
移動が制約される状況はなぜ発生するのか。地域公共交通の置かれている現状や衰退の要因とは。そして、地域公共交通を再編・再構築していく際の壁とは何か。
本特集では、移動制約者が困難を抱える構造、地域公共交通の再編・再構築が進まない構造を明らかにする。
生活困難から健康リスクまで。「移動制約」の実態と影響
そもそも移動制約者とはどのような人たちなのか。
一般社団法人交通工学研究会によると、移動制約者は以下のように定義されている。
本特集では、地域公共交通の衰退をはじめ住民を取り巻く環境が近年大きく変化していることから、主に広義での移動制約の困難が構造的に発生する背景を見ていく。
では、移動が制約され困難を抱える人は国内に何人いるのか。
現時点(24年12月)で上記の定義を満たす人数を明らかにした調査は無いが、たとえば地域交通DX、移動の人手不足解決を目指す事業者団体「モビリティプラットフォーム事業者協議会」の「公共交通課題の実態に関する調査結果(人口5万人以上の地域の居住者を対象に実施したインターネット調査)」によると、過去1ヶ月以内に適当な交通手段がなく移動に困った経験がある人は「6人に1人」という結果が出ている。
また、日常の買い物機会が十分に提供されない状況に置かれている人々、いわゆる「買い物弱者」についての調査は行われている。
農林水産政策研究所では、小売店やスーパーなどの店舗(※1)まで500m以上かつ自動車利用困難な65歳以上の高齢者を指す「食料品アクセス困難人口」を調査しており、その人口は毎年増加の一途を辿っている。
2020年には全国で904万人と推計されており、これは全65歳以上人口の25.6%にのぼる。このうち75歳以上では566万人で、全75歳以上人口の31.0%となっている。
いま社会では少子高齢化が進み、病院や学校、小売店の統廃合なども進行。加えて地域公共交通の減便や廃線等も起こっている。アクセスする先も、アクセスする手段も限られてくることから、今後移動に困難を抱える人たちは増えていくと考えられる。
「地域モビリティの再構築」の編著者の一人であり、公共交通計画や都市交通に詳しい岡村敏之さん(東洋大学国際学部国際地域学科教授)は、移動が制約され困難を抱えるきっかけについてこう話す。
東洋大学国際学部国際地域学科教授。国際学研究科国際地域学専攻教授。国際共生社会研究センター研究員。国際開発学会、日本福祉のまちづくり学会、アジア交通学会、交通工学研究会、日本都市計画学会、土木学会に所属。
「これまで移動に制約を受けてこなかった人でも、ある日急に移動ができなくなることは十分に考えられます。
それは本人の身体的な状況の変化をきっかけに起こるかもしれませんし、急に地域から電車やバスといった交通手段がなくなってしまうことで起こるかもしれません。
そうしたときに、その人の移動できる自由が制限され、自由に移動できる人とできない人の格差が生じてしまうこと、移動できない人に困難が生じてしまうことが問題だと考えています。
特にいまは公共交通の衰退が始まっている地域も多く、格差や困難が生じやすい状況になっていると言えます」
移動が制約されると、冒頭の安藤さんと河合さんの言葉通り、大きな困りごとを抱える可能性もある。
さらに、岡村さんは「車を保有しているかどうか、運転できるかどうかという点も、困難を抱えるか否かの大きな分岐点になります」と続ける。
モビリティプラットフォーム事業者協議会の「公共交通課題の実態に関する調査結果」によれば、生活に自動車が必要な場所に住んでいるものの、個人の自動車は保有していない、あるいは自分では運転しない若年層や80歳以上の高齢者(免許返納層)が移動に困難を抱えやすいとしている。
公共交通がない、あるいは乏しい地域に住む車保有者は、車が運転できなくなると移動が大きく制約されることから免許返納をためらうという心理が生まれることも少なくない。
また、運転を辞めた人は、運転を続けている人に比べて要介護認定のリスクが上がるという研究結果もある。
移動が限られることで発生する生活上・健康上の困難や、免許返納へのためらいなどについて、詳しくは第一章で見ていく。
赤字に人手不足、廃止・廃線も——。地域公共交通の衰退の現状
移動が制約される大きな要因の一つに、地域公共交通の衰退がある。
現在、地域鉄道、バス、タクシーなどの交通事業者は経営的に厳しい状況にある。
また、路線の廃線・廃止や廃業も起こっている。
このように全国的な衰退が起こっているが、公共交通事業者や移動制約者の置かれている状況は地域によってその様相が異なる。
【中小都市・交通空白地】
中小都市・交通空白地は、地域に公共交通事業者がいなかったり、事業者数が限られていたりする。過疎化や高齢化も進んでおり、病院や学校の統廃合などによって日常生活の移動の問題が深刻化している。
【地方都市】
地方都市では、公共交通事業者はいるが中心部では過当競争が起こっており、郊外に行くと赤字路線になっているという点が特徴だ。地域の公共交通を持続させていくために、特にステークホルダー間の連携・協働が必要となっている。
【大都市】
大都市については、公共交通事業者が多様なサービスを提供しているものの、内外から多くのビジネス客や観光客が訪問しており、特に外部の人にとって交通機関が使いづらいという課題がある。
特に、交通ネットワークが複雑で外国人訪日客にとって乗り場、経路の情報、乗り換え方法などがわかりづらいという利便性の課題がある。また、一部の場所・時間帯では観光客が集中し、住民の利便性も損なわれるケースがある。
【地域間】
上述の各地域を跨ぐところで、地方部では医療や教育といった都市機能へのアクセス確保が重要になる。
本特集では移動制約者の「生活上・健康上の困難」が生まれる構造を明らかにするため、上記の整理のうち、特に当事者への生活上・健康上の影響が大きい「中小都市・交通空白地など(主に人口10万人以下の自治体)」と「地方都市など(主に人口10万人以上の自治体)」に焦点を当てていく。
地域公共交通の衰退の現状や背景など、詳しい実態については第二章で見ていく。
進まない連携と実行。地域公共交通の再編・再構築に向けた壁
移動制約の困難を解消するためには公共交通を再編・再構築する必要があるが、地域の実情によってその解決のアプローチは異なる。
過疎化や高齢化が進んでいる中小都市・交通空白地では、交通事業者に限らず介護や教育の分野でも人手が不足しているところが少なくない。地域にある限られた資源をどのように活用していくか?という視点で施策を行なっていく必要がある。
地方都市に関しては、コンパクトプラスネットワーク(※2)の考え方や、公共交通事業者同士が連携をするという考え方などに沿って、地域内で効率的な公共交通の運営をしていくことが求められる。
たとえば熊本県では2024年度内に全国交通系ICカードが廃止され、県内のバスを利用する際はクレジットカードなどのタッチ決済とする方針が発表されている。
背景には、全国交通系ICカードでの決済機器の更新費用にコストがかかる、行政からの補助が受けられないという交通事業者の抱える問題があり、利用者からバスの利用について「あまり使わなくなるかもしれない」との声も寄せられているという。(※3)
なお、地域鉄道の沿線が「中小都市・交通空白地」と「地方都市」をまたがっていることなどもあり、都市間での交通事業者の連携も必要なケースがある。ある一つの沿線上でも、タクシーが十分に機能している駅とそうでない駅が隣接していたりと、駅ごと・エリアごとに地域公共交通の実情が異なる場合も存在する。
このような状況では、各地域で自治体や交通事業者といったステークホルダーが連携し、再編・再構築を進めて行くことが求められる。
一方で、その連携の中心を担う自治体を取り巻く課題は多い。
実際に地域公共交通の再編・再構築を進めてきた自治体の担当者は、以下のような点を指摘する。
「私たちの場合は、町長が『自治体が責任を持って進めていくこと』『実証実験後もサービスを将来的に拡大していくこと』などを住民のみなさんにお伝えした上で行いましたが、“首長のリーダーシップが発揮されているかどうか?”は取り組みを進める上で大事な点だと思います」(和歌山県太地町・和田さん)
太地町役場総務課。小型電動カートを利用した自動運転サービスの導入に携わる。
「交通事業者同士の調整は難しいポイントだと思います。バス会社の方とタクシー会社の方とディスカッションする場を設けても、お互いにやりづらい部分はあると思うので」(愛知県春日井市・津田さん)
春日井市まちづくり推進部都市政策課。限定区域内ラストマイル自動運転(ゆっくり自動運転送迎サービス)の導入や、オンデマンド乗合サービス(乗合タクシー)の実証実験などに携わった。
そして、連携できたとしても実際に実行に移す際の壁も高い。
たとえば、人材や車両といった資源が限られる中小都市・交通空白地で特に重要と考えられる実行策の一つに、「ライドシェア(一般ドライバーが自家用車で乗客を有償で運ぶサービス)」がある。
現時点(24年12月)では、タクシー事業者が運営主体となり、一般のドライバーが自家用車を使って有料で人を運ぶ「日本版ライドシェア(自家用車活用事業)」のサービスが開始されているが、中小都市・交通空白地ではそもそもタクシー事業者がいなかったり、人材不足など体力がなかったりするために導入できないという課題がある。
また、類似のサービスとして「自家用有償旅客運送制度(バス事業やタクシー事業によって輸送手段を確保することが困難な場合に、市町村やNPO法人などが自家用車を活用して提供する有償の旅客運送)」もあるが、持続可能な形でビジネスモデルを構築する難しさがある。
「役場を運行主体に、地域住民のドライバーが個人の自家用車を使って送迎するというサービスを提供していますが、運賃収入だけでやっていくのはかなり厳しいです。より多くの人に協力いただいて継続していくためにはどうしたらいいか、試行錯誤しています」(事業者協力型自家用有償旅客運送の全国第一号・富山県朝日町担当者の小谷野黎さん)
富山県朝日町町商工観光課。「ノッカルあさひまち」の発足、導入に携わる。
これらはあくまで一例だが、地域公共交通の「連携」と「実行」においては多くの課題がある。詳しくは第三章で見ていく。
いま、地域公共交通の衰退をはじめとする社会環境の変化により、特に車非保有者には移動を制約され困難を抱える人たちがいる。
車を保有しない人でも交通手段が確保されている状態であるためには、地域公共交通の再編・再構築が必要だ。しかしそこには「連携」と「実行」における多くの壁が存在している。
本特集では、移動制約の困難やそれが生じる構造、再編・再構築が進まない背景を明らかにしていくことで、あらゆる人が移動の自由を確保できる社会のためには何が必要か考えていく。
※1:店舗は生鮮食料品小売業、百貨店、総合スーパー、食料品スーパー及びコンビニエンスストア、ドラッグストアを指す。なお、2015年以前にはドラッグストアは含まれない
※2:地域の活力を維持するとともに、医療・福祉・商業等の生活機能を確保し、高齢者が安心して暮らせるよう、地域公共交通と連携して、コンパクトなまちづくりを進めること
※3:くまもと県民テレビ「【なぜ?】Suicaなどの交通系ICカード決済 熊本のバスや市電で廃止へ」
各記事の紹介
【1章 移動制約により起こること】
<1回 買い物に行けない、お金を下ろせない——。移動制約による困難の実態とその要因>
今週は会えるけど、来週また会えるかはわからない——。
人は移動が制限されると生活面や健康面でさまざまな困難に直面する。
買い物支援サービスに携わるスタッフが目にする現場の実情、移動先や移動手段が減少している社会的背景に焦点を当て、移動の制約によって生じる困難の実態とその要因を明らかにする。
<2回 「事故は怖いけど、車以外の交通手段では…」免許返納をためらう背景にあるもの>
「免許を返納した後の生活を想像すると、車を手放すことはなかなか現実的に考えられないんです」
いま移動先や移動方法の減少によって、車保有者が交通事故のリスクに不安を感じながらも車を手放せない状況が生じている。
今年(24年)で86歳を迎える高齢ドライバーの片山靖之さんと、片山さんの親族であるYさんへのインタビューを通して、免許返納をためらう背景を明らかにする。
【2章 衰退する地域公共交通】
<3回 地域の足が消えていく——。データで見る地域公共交通衰退の悪循環>
長年にわたって衰退の一途を辿っている地域公共交通。特に地方都市、中小都市・交通空白地では厳しい状態にある。
地域公共交通が衰退しているのはなぜなのか。その背景には、いち事業者では止めることができない“需供減少の悪循環”がある。
3回では、その悪循環が起こる構造をデータをもとに明らかにしていく。
<4回 「車で移動できればそれでいい」のか?自家用車普及の陰で進んだ地域公共交通の衰退>
いまはどこに行くにも車が便利な社会だ。一方で、自家用車を持たず交通手段が限られる人にとっては、移動に困難を抱えやすい状況であるとも言える。
各地に根付いている“車保有者が移動しやすいように最適化された街づくり”により、公共交通に頼らざるを得ない車非保有者の移動困難が顕在化・深刻化している。
4回では、自家用車で移動しやすい街づくりはどのように進み、地域公共交通や人の交通手段にどのような影響をもたらしたのか見ていく。
【3章 地域公共交通の再編・再構築に向けた壁】
<5回 連携の“頭”である自治体が始動しづらい。地域公共交通の再編・再構築が進みにくい構造>
移動制約の問題を解決するには、自治体が主導的役割を持ち、関係者とともに地域の実情を踏まえて公共交通を再編・再構築していくことが求められる。
再編・再構築のための仕組みや支援は国によって整備されているが、首長のリーダーシップへの依存や、支援制度の周知不足などにより自治体が主体的に動き出しにくい構造がある。
移動制約の問題解決に取り組む自治体担当者の声などをもとに、地域公共交通の再編・再構築の“頭”を担う自治体を取り巻く問題を明らかにする。
<6回 地域に根付くまで続けられるか?公共交通を再編・再構築する難しさ>
5回で触れた“始動しづらい構造”に加えて、始動後にも再編・再構築を進める上でさまざまな課題がある。
既存の交通事業者との調整、警察との協議、利用料金だけでは運営を続けられない収支構造。そして、新サービスが地域に定着するまでに要する時間の長さ——。
移動制約の問題解決に取り組む現場の声などから明らかにしていく。
【4章 解決の方向性】
<7回 解決の方向性>
車を保有しない人でも交通手段が確保され、あらゆる人に移動の自由を与えられている社会のためには、何が必要なのか。4章では、解決のための方向性を示す。
【参考文献など】
<書籍・論文>
家田仁(監修)、小嶋光信(監修)、三村聡(編著)、岡村敏之(編著)、伊藤昌毅(編著)「地域モビリティの再構築」(薫風社、2021)
楠田 悦子「『移動貧困社会』からの脱却 −免許返納問題で生まれる新たなモビリティ・マーケット」(時事通信社、2020)
西村 茂「長寿社会の地域公共交通 移動をうながす実例と法制度」(自治体研究社、2020)
「モビリティと人の未来」編集部「モビリティと人の未来: 自動運転は人を幸せにするか」(平凡社、2019)
<調査等>
国土交通省「令和5年版交通政策白書」
国土交通省「令和6年版交通政策白書」
国土交通省「地域の公共交通リ・デザイン実現会議とりまとめ 概要」
国土交通省「地域の公共交通リ・デザイン実現会議とりまとめ」
モビリティプラットフォーム事業者協議会「公共交通課題の実態に関する調査結果について」