「正規雇用で働いていますが、年収は300万円もありません。返還する奨学金の総額は約770万円。自己破産するしかないのか、と思うこともありますが、そうすると連帯保証人であるおじが返さなくてはならなくなるので……」
そう語るのは、埼玉県の団体職員・坂本巧さん(仮名、30)。
演劇を学ぶため、専門学校への進学を考えていた坂本さんだったが、父親の勧めもあり高校2年生の時に大学進学へと進路変更。都内の私立大学へ公募推薦で入学した。
父親が返済するはずが…突如のしかかる770万円の“借金”
進学費用について父親は「俺が返すから」と、日本学生支援機構の奨学金を借りるよう指示。坂本さんは言われた通りに手続きをし、奨学金を借りた。
充実した大学生活だったが、進学後も役者への夢は尽きず、卒業したのちは養成所兼芸能事務所に籍を置いた。
そんな坂本さんに父親は「奨学金の返済猶予の申請をしてくれ」と告げた。坂本さんの在学中に、勤務する印刷会社が倒産したのだ。父親はその後、脳梗塞も発症し経済的に困窮。父親が返すはずだった約770万円の“借金”が、突如としてのしかかってきた。
「しかも、奨学金の一部は家族の生活費にも使われていたようなんです」
芝居は趣味にとどめ就職したものの、稼ぎは多くない。返済猶予の期限はあと2年。どうやって返すか頭を悩ませる日々を送る。
日本学生支援機構から坂本さんに送られてきた返済額の通知書類(一部加工しています)。
大学生の2.65人に1人が利用する奨学金
今回の特集テーマは「奨学金」。
昨今、延滞額の規模や、その回収方法を問題視した報道が繰り広げられてきた。その際必ずと言っていいほど聞かれるのは「借りたら返すのは当然」「返せないのに借りる方が悪い」などの、自己責任論に基づく批判の声だ。
では、冒頭の坂本さんのように奨学金を借りて、返せなくなる人はどれくらいいるのだろうか。
日本学生支援機構の奨学金事業は、憲法の「すべての国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じてひとしく教育を受ける権利を有する」という「教育の機会均等」の理念のもと実施されている、国の事業だ。
2016年度には、131万人の学生に1兆465億円を貸与。同機構の奨学金制度を利用した大学生の割合は37.8%。2.65人に1人が利用している計算だ(2016年度)。2004年度の同機構発足以降、利用者は右肩上がりで増加している。
奨学金制度はもはや、一部の苦学生が使うものではなく、一般的な制度となっている。
奨学金利用者のうち、3ヶ月以上滞納している人は約16万1000人(2016年度)。ピークの約21万1000人(2009年度)と比べると減っているが、それでもなお、これだけの数返済が滞っている人がいる。
日本学生支援機構作成の「奨学金事業への理解を深めていただくために」より編集部作成。
また、返済できていないのは滞納者だけではない。冒頭の坂本さんのように、年収300万円(一部例外あり)以下の人は返還期限猶予制度、あるいは月々の返還額を減らす減額返還制度を利用できる。
返還期限猶予制度の承認件数は年々増加し、2016年度は15万4249件。
日本学生支援機構作成の「奨学金事業への理解を深めていただくために」より編集部作成。
減額返還制度も件数は右肩上がりで、2万1013件を数える(2016年度)。
日本学生支援機構作成の「奨学金事業への理解を深めていただくために」より編集部作成。
もちろん、日本学生支援機構の奨学金制度自体が年々規模を増しているという背景もあるが、それでもこれだけの数、返せない人がいるのだ。
はたして「自己責任」の一言で片付けられるのだろうか。
滞納リスクのある人にお金を貸す制度、奨学金
日本学生支援機構の奨学金制度は、一般的なローンとは違い、返済能力があるかの審査は行われない。借りられるかどうかは、①学力、②家計収入の二つの基準だけで判断される。
そもそも家計に余裕がある人は借りないので、借りる人は多少なりとも「返せなくなるかもしれないリスク」のある人だ。
それでも2000年代後半になるまで、この制度がまがりなりにも大きな社会問題とみなされずにきたのは、基本的に「奨学金を借りて大学に進学すれば、余裕を持って貸与額の返済ができる収入が見込める」社会だったからだ。
大卒者の就職は安定していたし、学費が安く親が払える程度の額で奨学金を借りずに済んだ人が多かった上、借りたとしても現在ほど多額ではなかった。
社会の変化に対応しきれていない奨学金制度
しかし、時代は一変した。
世帯所得は下落を続ける一方、国立・私立大学ともに学費は上がり続け、これまで「無理する家計」として、子どもの進学費用を賄ってきた親の支払い能力は限界に。
親の援助が期待できない大学生たちは奨学金を借りて進学するが、日本型雇用の形骸化した現代では、大学を卒業したからといって、かつてのように返済の見込みが立つ就職先ばかりではない。
つまり、社会のあり方が変わったのに、大学生やその親、国や日本学生支援機構といった関係者はその変化に気づけず、制度の変更が図られてこなかった。
本特集では、奨学金制度の社会問題化の経緯から始まり、各関係者を取り巻く状況がどのように変化しているのか、あるいは今後どう変化しなければならないのかを見ていく。
奨学金制度とひとくちに言っても、世代によってそのイメージは大きく異なる。ぜひ、本特集で制度のイメージをアップデートしてほしい。
なお、本特集では基本的に大学進学者についてのデータを用いるが、該当データがない場合は、短大・大学進学者や、大学・大学院進学者のデータを参照していることを申し添えておく。
また、とくに言及がない限り、奨学金とは国内の奨学金事業の約9割を占める、日本学生支援機構の事業を指す。
【第1章】奨学金のいま
第一回【奨学金問題とは何なのか?】では、奨学金問題の意味するところや、社会問題化の経緯について、新聞報道を使った奨学金制度研究を行う千葉大学の白川優治准教授に聞いた。
【第2章】親
第二回は【進学を望むけれど…“無理できなくなった”家計】。かつては親が多少の無理をしてでも学費をまかなっていた。そうできなくなった背景に迫る。
第三回【学費の家族負担主義が生む“家族責任主義”】では、そもそも親が払うのが当然という風潮のある学費のあり方について再考。この考えが社会にどのような影響を与えているか見ていく。
【第3章】社会
第四回は【「金がないなら高卒で働け」は妥当な意見なのか?】。しばしば聞かれる「金がないなら高卒で働けばいい」という意見は現代においても通用するものなのか。
【第4章】日本学生支援機構
第五回は【借りたい人は誰でもOK!?奨学金のあり方を考える】では、奨学金制度がはらむ滞納のリスクについて紹介する。
【第5章】大学生
第六回【大学生が「奨学金をいくら借りているか知らない」事情】では、大学生が当事者であるにもかかわらず、当事者意識を持ちにくい構造について見ていく。
【第6章】奨学金と高等教育のこれから
第七回は【給付型奨学金制度創設はハッピーエンドか?】。安倍政権のもと始まった給付型奨学金制度。これで奨学金問題は解決するのか。
【第7章】安部コラム
第八回【リディラバ安部の考える“奨学金問題”と“高等教育”】では、エリートのみのものではなくなった高等教育と、その必要性や負担のあり方について編集長・安部敏樹が綴る。