
学校というコミュニティは、子どもの個性や能力を伸ばしたり、社会に出たときに必要な知識を身につけさせたりするほかに、自分ひとりは他者とともに生きているのだという感覚を育てるという面でも、大きな意義を持つ。
今回は、陸上競技にてオリンピック大会連続3回の出場経験を持ち、現在は執筆活動や会社経営、指導者として幅広く活動する為末大さんと、リディラバ代表の安部敏樹が対談。前編では、学校というコミュニティだからこそ得られるものや、コミュニティにおける流動性などについて語った。
※本記事の取材は「リディ部〜社会問題を考えるみんなの部活動〜」で行われた2021/5/14のライブ勉強会『リディ部1周年お祝いイベント 理想の学校を語ろう公開対談③』で行われました。リディラバジャーナルの取材の様子は「リディ部」でご覧いただけます。
1978年広島県生まれ。スプリント種目の世界大会で日本人として初のメダル獲得者。男子400メートルハードルの日本記録保持者(2021年5月現在)。現在は執筆活動、会社経営を行う。DeportarePartners代表。新豊洲Brilliaランニングスタジアム館長。Youtube為末大学(Tamesue Academy)を運営。主な著作に『Winning Alone』『走る哲学』『諦める力』など。
学校というコミュニティを通じて「私たち」という感覚が身につく
安部敏樹 為末さんは子どもの頃、「学校」というコミュニティに対してどのような印象を持っていましたか。
為末大 「わかりやすく理不尽なことが起きる場所」という印象ですね。授業は好きではありませんでしたが学校の友だちのことは好きだったし、中学からは陸上ばかりの日々でしたが、典型的な青春時代を過ごしていたほうだとは思います。
それでも学生生活のなかで納得できないことや、憤るような経験は何度かありました。
安部 学校というコミュニティは理不尽さを経験する場である反面、そういった経験が良い意味でハングリー精神を生む面もありますよね。
でも、なかにはその理不尽さに押しつぶされたり本当に嫌な思いをしたりして、学校に行けなくなる人もいる。そのバランスはむずかしいかもしれません。
ただ、コミュニティのなかで他者と交流して相互作用を起こそうと思うと、必ず摩擦があるんですよね。
たとえば「Aさんのあの言動は理不尽だ」と感じても、そういったことは相手との合意形成のプロセスとして必ず起きることですし。学校というコミュニティでそこにどう線引きをしていくかは大切な気がします。
為末 僕は、学校というコミュニティの役割は三つあると思っているんですね。一つは、一人ひとりの個性を伸ばして、その子らしい人生をおくるための手助けをするということ。二つ目は、将来役立つような知識や学びをさせて、社会で働き役に立つような人間に育てること。そして最後が、共同体の意識を持たせること。
一部では学校不要論も出ていますが、「私」ではなく「私たち」という感覚を育むためには、国家としても学校という教育機関は今後も手放せないと思うんです。「私たち」という意識を持つ人間に育てるためには、学校という場は必要なのではないかなと思っています。
(PAKUTASO)
学校という「プロセス」の重要性を伝える

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